天皇制と戦争責任

天皇の逝く国で

天皇の逝く国で

幼い頃に自分を置いて姿を消したアメリカ人の父親と、日本人の母親の間に生まれた著者による本。著者はアメリカンスクールに通いながらも大学生になるまでアメリカに渡ったことがなかったという。そして久方ぶりの里帰りと時を同じくして昭和天皇の死を経験する。
国体会場に掲揚された日の丸を焼いた知花昌一自衛隊員であった夫の護国神社合祀を拒んで裁判を起こした中谷康子、天皇の戦争責任を明言したことで右翼団体から狙撃されることとなる当時の長崎市長である本島等の3人への取材を中心に構成され三者三様の天皇制と戦争責任を描く。三人の名前までは記憶に無くとも、中学時代だったか高校時代だったか、社会科でこれらの問題が取り上げられた記憶がある。

日本という国に侵略され、日本を守るために日本に捨てられた沖縄の知花昌一は、決して特殊な人物でなかったように思える。常に日本に裏切られ続けてきた沖縄の人たちが日の丸に対して抱く思いとは何なのか。器物損壊でかつての教え子である知花昌一を訴えた読谷村の村長はこう語る。

人は言いますよ、復帰闘争では日の丸を振ったのに、今になってそれを拒否するのは、おかしいとね。でもあのころは、われわれはアメリカ軍による人権無視に抗議していたのです。いつの時代にも、民衆は抑圧に抗議する権利がある。

そして、知花昌一を訴えながらも、共に沖縄戦における日本軍の行為と悲劇を学んだものとして二つの道はいつか出会うと述べた村長は、

今日の日本の裁判のありさまからすれば、知花昌一の行為が正当に評価されない可能性はあります。でも、彼が正しいということは、歴史が証明するでしょう。

と述べる。ぼくらの中に「アメリカが沖縄をはじめ琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している」と昭和天皇マッカーサーに述べたことを知っている者がどれだけいるのだろうか。

事故で亡くなった自衛隊員の夫の護国神社への合祀を拒み15年という長い年月の裁判を戦いながら、最高裁で逆転敗訴した中谷康子は裁判では負けてしまったものの

ゆっくりと、回り道をしながら、中谷康子は夫の死を彼らの言う有用性と奉仕の観念から奪い返して、彼女自身のためだけでなく、まだ生まれない世代もふくめた、想像される一つの共同体のために、それを再生させた。

それは、日本人が自らの生と死を自らの手に取り戻すための戦いだったと思う。クリスチャンはクリスチャンとして、仏教徒仏教徒として、無信仰者は無信仰者として。

天皇の戦争責任を明言した長崎市長は取材の1年後に右翼団体の構成員に狙撃される。

彼は負傷からはすっかり回復したと、新聞で読んでいた。足どりはゆっくりになったように思えたが私をはっとさせたのは、一年まえにはまったくなかったどことなく弱々しさの漂う感じだった。私は事件の公的、政治的側面にばかり目を奪われて、そのような存在に還元しつくせない生身の個人に対する殺害の試みでもあったのを忘れていた、と無念さに胸を就かれながら思い知った。私自身の反応はマスコミのそれと似たようなものだったのだ。いのちを奪おうとするほどの憎悪を浴びるという経験がどれほどの衝撃か、思ってみなかったのである。

日本において、天皇の戦争責任というタブーに触れるということがどれだけの重みを持つかということを取材してきた著者にしては、随分脳天気なように感じるが、戦後に生まれたぼくらの世代にとっての実感というのはこの程度のものであると思う。保障されるべき言論の自由についての問題と天皇の戦争責任については個別に論じられるべきであると思うが、やはり映画「靖国」の件や、プリンスホテルの使用拒否問題を思い浮かべずにはいられない。
20年前よりも状況は悪化しているように思えて仕方がない。

日本に愛着抱きつつ、ノスタルジーを強制する著者の考えには多少辟易する部分もあるが、事件でなく、人間にフォーカスし、彼らと彼らを取り巻く人間たちの声を聞くことで、また、日本について英語で書かれた文章を翻訳された日本語で読むということで、問題のぼやけていた輪郭が浮き上がってくるように思える。

天皇制という責任転嫁と責任回避のシステムに組み込まれている限り、日本と日本人はこれ以上前進することはないと思う。