秋葉原の通り魔事件はそんなに重要な事件なのか?

痛ましい事件だとは思う。
殺された方々の無念さは察して余りあるものがあるし、傷つけられた方々や現場に居合わせた方々の恐怖や痛み、これから先のことを考えると暗鬱な気持ちになる。
しかし、究極的にはボクが殺されたわけでもないし、ボクが傷つけられたわけでもない。もっと言うと、ボクの近しい誰かが被害者になったわけでもない。
マスコミはこのニュースをしばらくの間、トップ扱いで報道するだろうし、刺激的で分かりやすい写真や動画を垂れ流すだろう。そして、こんな時ばかりしか出番のない専門家が、彼らにとって都合良く加工した数字を見せて、凶悪犯罪が増加しているだとか、世の中がおかしくなっているだとか、オキマリの文句を並べて、ぼくら視聴者・読者に彼らの都合が良いように歪曲した世の中のイメージを植えつけようとするのだろう。
事件が起きた当日の夜には、殺された方々の写真を手に入れ、親族或いは友人の方々のインタビューまでおさえるマスコミは、そこまでして部数と視聴率が欲しいのだ。現場の写真を携帯やデジカメで撮ってマスコミに提供している人たちに至っては、マスコミという第四権力の忠実な飼い犬なのだろう。自分たちを戦場カメラマンだとでも思っているのだろうか。ロバート・キャパ沢田教一、ケビン・カーターの苦しみと自分たちの脊髄反射的な思考回路を比較しているのだろうか。
でも、そうやって人の悲しみを浪費することで、ぼくらも、安全なところからの高みの見物ができるという快楽を得ているのだけれど。
そうしてきっと、すぐにこのことも忘れてしまうだろう。
被害者の方々とそこに繋がる方々には、申し訳ない、本当に申し訳ないけれど、一人の通り魔の凶行とその結果を微に入り細に渡り連日報道することがマスコミの使命ではないと思う。もし、まだマスコミが生きていたらと仮定しての話だけど。